
昭和44年生まれの直美の物語⑤
5・アパレル会社へ就職
バブル期の中、三年間の学生生活を送った。
大好きなDCブランドの洋服で身を包み、おしゃれな人たちや最先端を行く人、職人気質の人、個性的な人たちと共に学び、やがて直美は子ども好きだったこともあり「子供服のデザイナー」を目指すようになった。
クラスの人数は七十人、提出物が多く、厳しかったためそのうち十人は一年生のうちに退学していくような学校だった。
女子が八割、男子が二割、どのクラスにも必ず三名の留学生(韓国・台湾・中国)が在籍していた。
ここでファッションの特徴について一つ、お伝えしておこう。
バブル期の象徴とも言えるのが「肩パット」である。婦人服も紳士服も、大きな肩パットが入っていた。肩パットオン肩パット(ブラウスにもジャケットにも肩パット)になることもあり、みんな大きな肩幅をしていた。
人間を大きく見せたいという願望からのファッションだったのであろうか。
もう一つは体にフィットした「ボディコン」というファッションである。女性は男性の気を惹くために、体のラインを強調する服を着た。
「ディスコ(今のクラブ)」のお立ち台で羽のついたセンスを振り回して踊る姿がメディアに取り上げられ、チヤホヤされていた。
今では考えられないことだが、男たちはスポーツカーに乗ることがステイタスで、「トヨタ・ソアラ」「トヨタ・セルシオ」「日産・スカイライン」などに乗り、女性はスポーツカーに乗せてもらうことをステイタスとした。
直美はと言うと、興味の先が違ったようで、スポーツカーも肩パットもボディコンも縁が無かったようだ。古着屋と生地屋ばかり巡っていた。DCブランドは高価だったので一枚か二枚かをバーゲンセールでしか買えなかった。リーバイス501(ジーンズ)とTシャツにジャケットという恰好を好んでいた。直美はどちらかというと職人気質だった。
話を戻そう。
そんなバブル期の学生時代も父の教えの通り、母に「うちはサラリーマン家庭でお金には限りがあるからね」と言い聞かされ、華やかな生活を送っている友人たちも居たとは思うが、母の言葉を信じて、それなりに楽しく節約生活を送り、トップクラスの成績で卒業し、某DCブランドの子供服のデザイナーとして、バブル景気が崩壊したその年の三月に社会人となった。
子供服のデザイナーとしての仕事はやりがいがあった。しかし、毎日の残業、残業はいくらしても手当は一定。時間通りに終わらないであろう仕事の量。それでも自分のデザインした子供服が商品化され、店頭に飾られる、そしてデザインした服を着ている子どもを街で見かけたら、私の心は踊るわけだ。喜びを感じる、承認欲求が満たされる気持ちが支えとなって仕事をしていたように思う。
バブル期に発展したアパレル産業、バブルが崩壊してもすぐには影響を感じなかった。しかし1年半くらい経った頃、国内の縫製工場へ発注していた商品は一部、商社への発注へと移行した。それは中国への大量生産の発注である。
安く大量に生産する方向性が始まった。
二年三か月という短い期間しか勤めなかったが、社会人としての学び、仕事の効率、商談の仕方、プレゼンの仕方、たくさんの学びがあった。これは退職して五年くらい経ってから気づくこととなった。
バブル崩壊後土地建物は下落した。そのアパレル会社は一等地にたくさんの土地を買っていた。
営業成績が下がると、そのアパレル会社の社長は営業マンを他の社員の前で、これ見よがしに殴った。今思えば資産の価値が下がりこれからどうなるか不安からの暴言暴力だったのだろう。
バブルは多くの人の人生を二分したのかも知れない。
直美の父が「こんな好景気はいつまでも続くわけがない」と母に話し、直美たち姉妹に贅沢をさせることなく、生きさせてくれたことは感謝である。