
昭和44年生まれ直美の物語⑦
7・紳士淑女が泊まる一流ホテル
アパレル業界でしか働いたことが無かった直美は、広島でもアパレル業界での仕事を探すことにした。
子供服のデザイナーを辞めてから直美は主にショップ運営と販売の仕事をしていた。
直美が就職したのはバブル景気が崩壊した平成三年、その後経済は低迷、就職氷河期(当時流行語大賞にノミネートされた言葉)となった。アパレル業界も少しずつ業績が下がり、この頃には直美が子供服のデザインをしていた会社は倒産していた。
その頃の直美は彼との同居生活にピリオドを打ち、心機一転しようと意気揚々ではなく、とりあえず久しぶりに両親との同居生活に甘えさせてもらって働くことは小遣いを得るための手段くらいの気持ちしかなかった。
有経験者は優遇されるのが常である社会、デパートの販売員として採用となった。
女性特有の人間関係にうんざりしながらも、そつなく仕事をこなしていた。
その会社は売れ行きが悪く二年足らずで撤退となった。この会社だけではない、その当時から今もだ、店が入れ替わることは珍しくなかった。
しかし、経験は大事だ。仕事が無くなることはなく、手段としての仕事だからどこでも良かった。派遣販売員として登録し、日当一万二千円でデパートで働いた。常に人間関係にうんざりしていた。しかし、派遣登録の働き方はその頃の直美にはちょうど良かった。
心のリハビリ中とでも言おうか。三十代前半、恋愛に失敗し親元へ出戻った。その時の生活は居心地が良かった。親元でのんびりとした生活を送っていた。
直美は大人になるってどういうことだろう?
一流ってなんだろう?
本物って何?
と、考えていた。その頃仲良くしていた友人と二人で、そんなことを話しながら、一流ホテルに泊まってみようと計画した。
一流ホテルに泊まるのに、マナーやファッション、靴やカバン、そこそこのブランド品で身を包み、高級ブランドのロゴマークの入ったカバンを持った。
そして一流と言われるホテルに泊まってみた。
一流ホテルの一つ、リッツカールトンホテルに泊まった。リッツカールトンのクレド(理念)は有名である。
「紳士淑女をおもてなしする私たちもまた紳士淑女です」をモットーとしているのだ。
まさしくそうだ。おもてなしは最高だった。ホテルマンたちは皆んな紳士淑女だ。しかし、残念なことにお客はと言うと、私たちもそう、背伸びをしているだけの凡人。
辺りを見回すと、高級ブランドのロゴの入った服や鞄、靴にもロゴ。エルメス、シャネル、ルイヴィトン、カルチェ、クリスチャンディオールなど、それらのマークを身につけていない人を探す方が難しそうだった。そのお客たちの態度は偉ぶり、横柄な人も少なくない。
その時に直美は心で叫んでいた。
「一流ホテルの客は紳士淑女ばかりではないのだ」と。
一流ホテルに泊まり、一流ホテルのラウンジでお酒を飲むという経験から学んだことは「人はお金だけで幸せにはならないな。」ということだった。