
昭和44年生まれ直美の物語⑧
8・「癒し」という言葉からの転職
お金を得る手段としてのデパート勤務は早くも三年が経った。そんなある日、某大手アパレルメーカーのショップで二十歳代の社員と売り場に立っていた。その日は理不尽に厳しい店長がお休みで若い社員と二人だった。
店長が休みの日は気合が入る。絶対に売上げたいのだ。
直美は若い社員の補助として気合を入れていた。お金を得る手段としての仕事ではあるが、元々負けん気の強い直美は仕事に対しては結果を出すことを目標としていた。
「さぁ、まずは顧客に電話しましょう」と声をかける。一人でも多く来店してもらわないことには始まらない。
初めてのお客さんも逃してはならない。タイミングが勝負だ。
その日はなんとか売上目標をクリアし、安堵の二人であった。
「良かったね。店長の居ない日ほど、気合が入るよね」と直美が声をかけた。
すると、若い社員は「直美さんと二人の時は、なんだか、ホッとするんです。癒されるっていうか」
「ん?癒される?」直美はその癒しという言葉に驚いた。
理不尽に厳しい店長と比べたら、そうかもな。と心で思いながらも、「癒しねぇ」と「私が癒すのか?」とピンときていない直美だった。
その日から「癒し」という言葉が頭から離れなくなった。
広島に住むようになってから約五年が経ち、直美は三十五歳になった。言うほどのことでもないが、それなりの恋愛はしていた。しかし前回の恋愛を終えてから、結婚を考えることをしなくなっていたので結婚には縁が無かった。
手段としての仕事は人生の目標を見出すことが出来るのか?と考えるようになった。
癒しの仕事とは?と、職業を探してみた。たどり着いたのは「医療」だった。「看護師」。人の体に針を刺すことは私にはできないであろうと直美は思った。「療法士」という職業に辿り着いた。直美は五体満足で大きな病気も大きなケガもしたことがないこともあり「医療」とは縁遠かった。直美は「療法士」の存在を知らなかった。 「リハビリ」をする職業だ。
「リハビリ」とは「リハビリテーション」の略だ。意味を調べると「人間らしく生きる権利の回復」や「自分らしく生きること」を重要視して、それを目的として行われるすべての活動がリハビリテーションなのだ。「これだー」と直美は思い、更に調べた。
調べを進め、すぐさま冷静に判断した。三十五歳の直美がスムーズに大学に入り、スムーズに国家試験に合格したとしても、四十歳の新卒だ。しかも、何らかの医療職の経験があっての新卒ならまだしも、何の経験もない新卒は使ってもらえるはずはないか。看護師なら四十歳の新卒もありだがなぁ。多分…。と色々と想像した。
行動の早い直美はじっとしていることは無かった。その年は平成十五年、介護保険制度が始まって三年目だった。世の中にはヘルパー二級講座が溢れていた。二週間で取得できるようだ、ひとまずそのヘルパー二級を取得してみようと動き始めた。