れんくん日記

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昭和44年生まれ直美の物語④

4・バブル期の生活

やんちゃな少年たちとの付き合いは、当時の直美は、親、特に母親に内緒にするしかなかった。

反対されることはわかっていた。やんちゃな彼らは、悪いことだとわかってやっていた。悪いことを直美に勧めることはない。直美は子どもながらにも、彼らの淋しい気持ちを思っていた。そして直美にとってはヒーローだった。しかし、それを上手に母親に説明するほど、伝える力は無かった。

転校したことで、教師から意地悪をされ、大人、教師への不信感を募らせて、少々やさぐれた。

しかし、所詮、ぬくぬくと育てられた、絵にかいたような平凡なサラリーマン家庭の娘である。将来を考えて、親に反発しながらも、まぁまぁな高校へ行った方がいいのよね。と思っていた。

母は心配をしながらも、私を信じていてくれているのだろうと直美は思っていた。

音楽以外に、手芸や料理などへの興味があった直美は、姉が編入した高校に家政科があると知り、そこを受験することにした。やんちゃな彼らが進むであろう高校にも家政科があった。しかし直美は冷静だった。まぁまぁな高校を選んだのだった。今、振り返ると可笑しくもある。

高校への進学後はやさぐれながらも、「良妻賢母を育てる」という昭和の初めに掲げられたままの理念を持つ高校の家政科で「調理」「洋裁」「和裁」「家庭経営」「保育」を学ぶこととなった。

田舎の女子高校生として、やんちゃな少年たちとも楽しく付き合いながら、それなりに過ごしていた、この頃、「バブル景気」という好景気。昭和六十一年の十二月から平成三年の二月までの五十一か月間に日本で起こった資産価格の上昇と好景気であった。

高校二年生の終わりごろからその「バブル期」だったのだが、特段、家庭の中での変化はなく、アルバイトをして好きなDCブランド(デザイナーズ&キャラクターズ)の洋服を買うことが楽しくてならなかった。DCブランドとは一九八〇年代、日本国内で社会的ブームとなった少数派の個性的なブランドイメージだ。バブル期が崩壊され長期不況とデフレ拡大、その頃から安いことが売りのファストファッションが拡がり、DCブランドという呼称は廃れた。直美はそのDCブランドブームにまんまと乗っかってしまっていたわけだ。

その頃、テレビでは「夕焼けにゃんにゃん」という番組が始まり秋元康プロデュースの「おニャン子クラブ」という、女子高生や女子大生を集めたグループが大ブレイクした。

「おニャン子クラブ」は隣に居そうな女の子の集団で、誰もがそのグループに入れるのでは?と思わせる戦略。今も変わらずにあるのは面白い。今でいうAKB48。秋元康の視点は変わっていない。

父が亡くなった後、母から聞いた。

「バブル期はお父さんの給料は〇千万円あった。サラリーマンなのに確定申告をしなければならなかったのよ。でもね、お父さんは、こんな景気は長くは続かないから、娘たちには下手に贅沢をさせてはいけないよって言ってたのよ。」と教えてくれた。

「まぁ、借金せずに、二人の娘の学費と生活費が払えたから、良かったのよ」とも教えてくれた。

直美は高校生活で「調理」「洋裁」「和裁」などを学び、「良妻賢母」になる…とはならず、DCブランドを着ることから、オシャレへの興味が深まり、ファッションの専門学校へ進学することを決めた。

宇都宮でのやさぐれた生活に終止符を打ち、一足先に東京の大学に通っていた姉を追って、東京での生活を始めることとなった。やんちゃな少年たちとの付き合いは自然消滅という形で、ここでおしまいとなった。

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