れんくん日記

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昭和44年生まれ直美の物語①

 直美のものがたり

1・転勤族の娘

直美は、昭和四十四年の冬に生まれ落ちた。

戦後、昭和二十九年から始まった高度経済成長期の最中の生まれである。

高度経済成長期は経済成長率が年に十パーセントを超え、諸外国にも例をみない急速な経済成長を遂げた時期である。技術革新が起き、自動車産業、電気機械業、化学工業、造船業などのメーカーが会社の規模を拡大していった。

冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビ「三種の神器」と呼ばれ家電市場が拡大した。その伸びゆく電気機械業の一つである精密機械を製造する会社に勤める父と専業主婦の母との間に直美は次女として生まれた。

高度経済成長期は、昭和四十八年石油危機に陥ってピリオドとなった。その時、四歳だった直美は「オイルショック」と騒がれ、母がトイレットペーパーを求めて必死になっていたことを覚えてはいないが、のちにテレビ番組でその時の様子を見て思った。母の癖はこのときに始まったのだと。母はトイレットペーパーだけは買い置きが多いのだ。洗剤などの消耗品の買い置きは一つくらいしかないのに、トイレットペーパーの買い置きだけは常に二十個くらいある。七十八歳の今もその癖は続いている。

どうでもよい話ではあるが元大関の朝潮そっくりな赤ちゃんだった直美は人見知りでいつも母や姉の後ろに隠れながらも健康にスクスクと育った。両親、親戚等からの愛情をそれなりに受けながら、それなりに親子喧嘩、姉妹喧嘩、お友達と仲良くしたり喧嘩したり、様々な経験を積みながら神奈川県横浜市というまぁまぁ都会な町で成長していった。

昭和五十七年に中学生に上がると、おしゃまな娘へと成長し吹奏楽部へ入部。楽しい中学校生活を送っていた。その五十七年はそののち暮らすこととなる広島市が十番目の政令指定都市となった次の年である。

転勤族ではあったが、幼稚園のときに一度引っ越ししただけで、中学2年生まで同じ学区で暮らしていた。

転勤は、まさかの多感な時期である中学3年生のときに訪れた。

転勤先は同じ関東地方の栃木県宇都宮市。

宇都宮市は江戸時代、城下町として栄え、参勤交代や日光東照宮の造営などによって往来も多く「小江戸」と呼ばれるほど繁栄した。昭和二十年の空襲で市街地の大半が焼失したが、いち早く戦災復興土地区画整理を進め、全国でもまれに見る復興をとげたと記録されている。その宇都宮市は昭和三十五年以降、宇都宮工業団地や清原工業団地等の造成をはじめ、工業振興策を推進した。

直美が転校した昭和五十九年は「宇都宮テクノポリス」の地域指定を受け、生産基地から頭脳基地への脱皮、産・学・住が有機的に結ばれたまちづくりを進めていた頃だった。父の勤めている会社は清原工業団地へ大きな工場を建てたのだ。そこの所長として父は配属された。

それまで、人見知りで大人しい幼少期を過ごし、それなりに様々な経験をして、協調性を育み、お友達を作り、家族関係も良好。1970年代、一億総中流(日本国民の大多数が自分を中流だと考える時代)いわゆる「中流家庭」まさに、絵にかいたような日本社会のサラリーマン家庭に育った。

たいした苦労は無く、明るく素直に育っていた。

父の転勤による「転校」は、苦しみを与えることとなった。

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