れんくん日記

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昭和44年生まれ直美の物語②

2・都会から田舎への転校

横浜市で十四年間を過ごし、同じ関東地方ではあるが宇都宮市は田舎だった。

昭和五十七年に東北新幹線が開通した(今のように東京駅からではなく大宮駅から盛岡駅まで)その翌々年のことだった。現在は「ギョウザの町」と言われ、石碑まで建っているようだが、その当時は「ギョウザの町」では無かった。昭和三十五年から工業団地を増設し多くの企業が工場を建て、昭和五十九年の「宇都宮テクノポリス」の地域指定を受けたことで、父のようなサラリーマンが転勤者として移り住んでいた。父の会社からもたくさんの人が移り住んだ。

楽しかった吹奏楽、そしてそこで学んだ音楽を活かしたいと音楽学校への進路を考えていたた直美は

「何故、単身赴任してくれなかったのか」「何故、お姉ちゃんは編入までしてでもついてきたのか」「なぜ?なぜ?」と思いながらも転校先の学校へ行くしかなかった。

そこで出会ってしまった出来事。それは教師の理不尽な態度であった。

まず、横浜市と宇都宮市の校則の基準が違った。

スカートの丈、髪型。

スカートの丈は横浜市では短からず長からずであった。ひざ下十センチ程度の長さのスカートをはいていた。髪型はパーマと毛染め禁止。当時は「聖子ちゃんカット」が流行していたため、聖子ちゃんカットを真似て横を段カットにして後ろへと流れるようにドライヤーでブローをしていた。

聖子ちゃんとは1980年代のアイドルの先駆けとなる存在で、近年の「会いに行ける、身近な存在」を売りにするのとは違って、まさに「高嶺の花」であった。松田聖子ちゃんのデビューを皮切りにたくさんのアイドル達がデビューし、たくさんの若者が夢中になった。

校則の話に戻る、宇都宮市では、スカート丈はひざ立をして床につかない長さが基準、髪型はパーマと毛染め禁止に加え、肩についたらおさげにする。という校則だった。校則を破るつもりはないため、その規則に準じ、スカート丈を直し、髪はおさげにした。

それなのに、なぜ。

たくさんの「何故?」の連続が始まった。

くせ毛を活かして聖子ちゃんカットを真似ていた。そのくせ毛を問題視されることとなった。教師は「パーマは禁止だ」と言って「パーマではなくくせ毛です」という私を信じることはなく、髪に水をかけた。

「何故?」

女子たちは集団となり意地悪な言葉を投げかけた。もう一人同じように引っ越してきた転校生が居た。彼女だけが心の拠り所であった。彼女はどちらかというと地味でおかっぱヘアーに黒縁の眼鏡、真面目で大人しい印象の子だった。目がくりっとしていてかわいい顔をしていた。トイレで泣いているときは、必ずそばに居てくれた。

教師と女子のターゲットは私一人だった。

「何故?」

ひと月後にクラス替えが決まった。

工業団地への転勤族の増加により、転校生が増えすぎたようだ。もう一クラス増やすためのクラス替えだった。

なぜ、直美がターゲットにされたかは後になってわかった。

昭和五十七年から五十八年にかけて横浜の青少年たちが犯した「浮浪者襲撃殺害事件」が理由だった。横浜からの転校生は要注意ということだった。

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